日箱

日常を箱につめる作業

money is possibility

ここ数年で「お金を使うこと」を覚えた気がする。 お金は使われるべきだし、お金は使うとなくなるものだ。そういう当たり前のことを考えるようになった。

もちろん、学生時代もアルバイトをしていて給料を貰っていた。初めて給料を貰った時の「働いたらお金がもらえるんだ。そして、このお金は自分の好きなことに使えるんだ。」というちょっとした感動を覚えている。ただ当時は学生で、社交的でもなかったし、今みたいにお酒を飲むことに楽しみを感じていたりもしなかった。「これはちゃんと自分が勉強するためにつかわないといけないんだ」みたいな、今思うと馬鹿みたいなことを真剣に考えていて、ゲームを買ったりするのにもちょっとした罪悪感があった。

そして社会人になって、きちんと毎月ある程度まとまったお金を労働対価としてもらうようになった。学生時代の倍以上はある。これが社会人なのか、とあらためて感動した。「初任給で親に何か買うように」と給料を受け取る時に言われたが、特に何か買ったりもせずに現金のまま生活費として手渡したことを覚えている。

そんな回想はさておいて、お金は偉大だ。

貧乏なのは不幸だとは思わないけれど、決して幸せだとは思わない。 貧乏でも幸せな生活!なんていうのは、自分達に言い聞かせる言葉であって、他人から評されるのは屈辱的である。 そもそも、本当にお金がない人はお金がない、なんて恥かしくていえないし、言わない。

お金は可能性である、と思う。

別になくてもある程度のレベルで生きていくことができるし、贅沢さえ望まなければ生活はできる。 ただ、何事にもお金は必要なのだ。学費であったり、食費であったり、水道光熱費であったり。ともすれば、初詣のお賽銭だってお金である。 例えば、1,000円あれば参考書が買えて、参考書がない人より有意義な勉強ができて、1,000円分の知識が増えるかもしれない。 1,000円出せば、それなりの贅沢なランチを食べることが出来る。お金はその人の教養レベルに直結する。

そして、その教養はその人の可能性をひろげてくれる。

だから、お金は可能性だ、と思う。

可能性をお金で買うのだ。